主観的体験の大切さ

こんにちは!

ショーコです!

ツラい・・・

家の愛猫の体調がすこぶる良くないです

できる限りのことはしてあげたいです。

残りの時間を3人で楽しく過ごせるように。

肝っ玉かあちゃんになりたいのですが、私にはとても無理。

泣いてばかりです。怖いです。猫ちゃんのいない日々が怖いです。

このツラい時間が早く終わればいいのに、と思ってしまうこともあります。

私は本当に弱い人間です。

城南宮の神様

以前のブログを読んでくださっている方はご存知かもしれませんが、私は京都にある城南宮の神様とご縁が深いんです。(出雲大社神様もね!)

今のように辛い時は、意識を向けて、マイ神様のオキナガタラシヒメさんと繋がることが多いです。

城南宮にいる私を想像します。

なぜか、いつも白い着物と袴を着けています。

ヒメ様は柔らかい金色に輝いて、いつもにこにこしています。

「猫ちゃんが苦しまずに寿命まで過ごせますように」と神様に伝えます。

神様は「大丈夫だよ」とにこにこ微笑みます。

「でも、私は猫ちゃんとお別れするのが辛くて、すごく悲しいんですと。なるべくいつもみたいに接してあげたいけど、ついつい涙が出ちゃうし、暗くなっちゃう」と泣きじゃくると

「大丈夫、大丈夫、乗り越えられるから。今辛くて当然。それが生き物の命と向き合うことなんだよ」と優しく言ってくれました。

大事な猫ちゃんとの別れが辛くて怖くて、外出してても泣いてしまうことがあります。

しっかりしなきゃ、と思えないんです。思う気力がないんです。

だから、そう思えるまではもう今の私でいることをよしとします。

ツラいながらも、大きな優しい存在に、自分のことを見守ってもらえていると思えることが、心の支えになっています。

主観的な体験が大切

今回の私の神様との交信は、完全なる主観的な体験です。

演繹法的に人間無くして神は存在しないという考え方はある種正しいと思います。

それでも、私は感じます。

神仏が必ず存在するということを。

木々のさやめき、曇り空の間を縫って届く太陽の光、ほおを撫でる風、さざなみの立つ水面に

神の存在を感じるの人は少なくないと私は思います。

神を感じる体験は主観的であるがゆえに誰にも侵されることのない、その人だけの大切な体験です。

誰がなんと言おうと、大切な体験をしたと思ったらそれを大事にするのが良いと思います。

教団とか特定の宗教に属する属しないということは関係なく

信仰心は人間が生きることと不可分だと、改めて思う今日この頃。

以前にも同じようなことを書いていましたね、てへ。よろしければこちらの記事をどうぞ↓

理想の親像?

私の大好きな城南宮の神様は、穏やか、優しい、神々しい!

あれこれ指図しません。笑

ただただ私を見守ってくれます。

不器用に生きる私を時には心配そうに見ていることもありますが、手出しはせずに、ありのままの私を見守ってくれる。

これは、私という存在を丸ごと肯定し、信用してくれていることなのではないかと思うのです。

まさに理想の親像?なのかな。

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